■まとめと考察 3
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2 日本軍が住民に手りゅう弾を与えたのか?
⑴ 日本軍が与えたという説 (帝国書院、学び舎)
<全日本民医連:「死ぬ前に子や孫に聞かせておかんと」 沖縄戦「集団自決」 内原静子さん(83) 不発だった手榴弾。しゅうとは棒で家族を殴り… 2008/12/1>より
・「森住卓(写真家) (※松永注:取材記事=聞き書き。話し手=沖縄戦体験者の内原静子さん)
・「あちこちで手榴弾が爆発し自決が始まった。」
・「住民は日ごろから「鬼畜米英、捕まれば、女は強姦され、男は八つ裂きにされ殺される」と教育され、米軍上陸前には「日本軍の足手まといになるから、敵の手に落ちる前に自決しなさい」と自決用の手榴弾を渡されていた。」
※1 「と教育され」の教育者が誰なのか書いてない(=「内原静子」さんが言っていない)が、文脈から推理するとそれは「日本軍」ということらしい(?)。したがって、手榴弾を渡したのは日本軍ということになる(?)。
しかし、厳密には、誰からもらったのかここには書いてない。
※2 こんなことはあんまり書きたくはないのだが…
朝日新聞や佐賀新聞、共産党系ウエブサイトなどの記事を読むと、《匂わしてはいるが、肝心の事実は書いてない》ということがけっこうある。つまり「印象操作(※厳密に言えば嘘あるいは嘘に近い場合が多く、かつ、部分的に事実の一部が混じっていることが多い)」の類。
推理するに、そういう記事の場合は、おそらく事実を知られると都合が悪いので隠しているのだろう。
上記記事の場合は、①内原さんが渡し手を知らない、のか、②筆者の森住氏が事実(※軍人ではない誰か)を隠している、のどちらかだろう。
なぜなら、もしも内原さんが”軍人から渡された”と言われたのなら、必ずそのことを書くにちがいない、と推理できるからだ。(※推理でなく直感では①のようだが…?)
⑵ 住民入手説
<ウィキペディア:沖縄戦における集団自決 2017.3.25>より
・「渡嘉敷島の陸軍海上挺身戦隊第三戦隊第三中隊長、皆本義博中尉(陸士57期)によれば、・・・軍が手榴弾を渡したということもありません。当時、村では臨時の防衛隊が組織されていて、これは在郷軍人を長として協力者を集めたものでした。いわば義勇兵です。彼らは手榴弾などを持っていました。それが、村民の手に渡るのは容易だったのです。」と回想している。」
・「秦郁彦は、・・・日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して「軍の関与があった」としている人間がいるが、兵器不足であり、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されただけなのに「手榴弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのは問題だとも批判している。」
<手榴弾を持っていた民間人 ~ 沖縄戦 2017.3.25>より
・「大東亜戦争沖縄戦でひめゆりの手記などを読んでいると手榴弾を持っていたことがわかります。
陸軍病院に勤務していなかった福地という生徒が兵隊と一緒に避難してきて二個の手榴弾を示し「覚悟はきめております」と、他の学友といっしょに死なせてくれという嘆願が手記に書かれています。
この後、13名で3個の手榴弾を持っていることが書かれており、他にも手榴弾があったことが伺えます。
他 の記録では9人で手榴弾2個で自決の話し合いをしており、その場にいた下士官があわててカンパンと交換で取り上げた話などがあります。
ひめゆりの場合は軍属なので、傷病兵や軍人からもらった可能性があります。
米兵の証言を見ておりますと、老婆が米軍の手榴弾を投げつけてきたというのがあり、おそらく米兵の死体からとったものと思われます。
日本兵の死体からも入手できたでしょうから、手榴弾の入手はさほど困難ではなかったと思われます。」
・「集団自決のあった渡嘉敷島ではせまい島内なので簡単には入手できないはずですが、生き残りの人の証言の中に「父が阿波連の区長を知っていたので特別に渡されてですね」と述べており、手榴弾がいくつか集められていたことがわかります。
赤松大尉や連下氏の証言では民間人には手榴弾は配っておらず、防衛召集兵に2個づつ渡しており、彼らが家族に渡したのではないか、と述べています。
皆本大尉の証言によると防衛隊は普段は自宅にいるが、自決のために渡したのではないだろう、と述べています。
いずれにしろ、手榴弾は手に入りやすい状況にあったといえます。」
<http://www.gettounohana.com/order/report/war-2.html 2017.3.25>より
・「渡嘉敷島の集団死
慶良間諸島の渡嘉敷島では、1945年3月27日夕刻、配置されていた赤松隊によって「住民は恩納河原近く西山A高地の軍陣地に移動せよ」という命令が出されました。ところが、恩納河原にたどり着くと今度は渡嘉敷区に戻るよう退去命令が出されたのです。しかし、渡嘉敷区はすでに米軍の砲爆撃の最中で戻ることは不可能でした。逃げ場を失った住民たちが、恩納河原で集団死を決行しました。
渡嘉敷島の場合、警防団によって予め住民に手榴弾が配られていました。手榴弾が不発で死にそびれた者たちは半狂乱になって、木の枝に首をくくったり、こん棒で殴り合ったり、カミソリや包丁で頚動脈を切ったりして死に急ぎました。
この集団死で亡くなった住民は325名。手榴弾の不発などで死を免れたものは336名いました。
戦後、軍による自決命令があったかどうかが論議されましたが、軍の命令以前に死以外の道はないという状況が作り上げられていたのです。」
※最後の文の「論議」の内容が書かれていないが、この文を論理的に推理すると・・・
論議の結果、①”軍の命令はなかったと分かった”、あるいは、”軍命の民間人への直接の下命は確認できなかった” のどちらかだろうと推理できる。
なぜなら、論議の結果・内容を書かないのにもかかわらず、文の後半に、”軍命とは無関係に、自決必至だった”と書いているからだ。
普通は、文の前半に「〇〇が論議されましたが、」と書くならば、後半は「・・・という結論になりました」、とか、「結論が出ませんでした」などという結びになる。
つまり、この筆者は、《”軍命についての論議”の結果・内容》を、なんらかの事情で書けない、あるいは、書きたくない状況にあったことが分かる(「論議」されたことはどうしても書きたかったが)。
そこで、「死以外の道はないという状況が作り上げられていた」という表現を無理やり(=非論理的に)くっつけることによって、①「軍命」の有無をうやむやにし(=ごまかし)、かつ、②《「軍」=沖縄県民の「死」》という印象をもたせたかったのだろうと推理できる。
◆「日本軍が民間人に(直接)手榴弾を配った」という事実の《体験者の証言》は今のところ見つけきれない。
実際のところは、①最初の出所が日本軍の場合、《沖縄の軍属など戦闘に関わる人々の手から、親しい避難民に渡っていった》、か、②米兵の死体が出所の両方の経路があるようだ。
したがって、「日本軍が(住民に)配った」と断定的に書くのは→× 帝国書院、学び舎。
※自由社と清水書院は集団自決について言及していないが、《1000人ほどの日本人が自殺を選んだ(追いこまれた)という悲惨な事実》は、日本人中学生には教えるべきことではないだろうか。
~次回、米国占領時代の描き方 ~
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