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【中学歴史教科書8社を比べる】113 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その13:沖縄戦 実物コピー2/2>

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~読者の皆様へのお願い~

・消された記事 10年ほどささやかにブロガー活動を続けていますが、数年前、(他のブログの)記事の一つが、著者(私)に何の通知もなく、知らないうちに消されたことがあります。個人名(公職についている方)を書き、嘘はないのですが、今から考えると内容(推論)にいくらか勇み足の感じはあるので、「何の通知もなく」という点を除けば、それなりに納得はしています。

・著作権に関して これまで著作権に関してのトラブルはありません。ただし、(このブログではない)他の意見公募式ブログで、ある投稿者が他のブログから記事を引用していて運営会社から注意があり、ブログ管理者の一人として、すぐにおわびして記事を削除した経験が一度あります。

 著作権法については一通り目を通しています。教科書の引用については、学問的・研究的利用なので問題ないと考えています。引用と論評についての公平性と論理性、客観性を保つように努めています。

 これまで注意も抗議もありませんが、読者が増えていくにしたがって、なんらかの動きが起きるかもしれません。【中学歴史教科書8社を比べる】シリーズの記事を今後利用される可能性のある方は、独自に保存されることをお勧めします。※引用も全面利用も可。自由にお使いください。

(※このシリーズ記事が、もしも突然削除された場合、泣き寝入りするつもりはまったくありません。徹底的に原因を調べ、理解者・支援者等の協力もいただきながら、復活できるまで何年かかろうと粘り強く頑張ります。憲法で「言論の自由」が明記されているこの日本で、そんなことにはならないとは思いますが…)  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ※琉球・沖縄の記事では、各社の掲載記事量が大きくちがう。

【教育出版】

 

【日本文教】

 

【清水書院】



 

【学び舎】


 


 

~次回、沖縄戦:米軍の描き方のちがい~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113・>


【中学歴史教科書8社を比べる】114 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その14 ④沖縄戦:ⅲ 米軍の描き方 1/2>

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■「沖縄戦」の各社記事量(単位=ページ)

 育鵬社 2.5 /自由社 0.5 /東京書籍 0.3 /帝国書院 2.1 /教育出版 0.3 /日本文教 0.9 /清水書院 0.2 /学び舎 2.0

 各社の力の入れ具合がはっきりと表れている。

 次は、その内容を観点ごとに調べていく。予定=米軍、日本軍、住民、集団自決の順に

 

ⅲ 米軍の描き方のちがい

 基礎知識を簡単におさらいしておく。

※できればこの知識を頭に入れて実物コピーを読んでみてください。
 地獄のような沖縄戦をしかけた米軍のようすを、各社は現代の中学生にどう伝えようとしているのか…

◆強大な軍事力・・・「陸海空において日米の大兵力が投入された」

・「第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(: Typhoon of Steel)」などと表現される」

・  アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母16隻を中心とした強力な機動部隊の第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。」

◆戦い方

・「猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。

◆米軍の人的損害

・「アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人」

 

 では、各社は「第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった」沖縄戦での攻撃側の米軍の姿をどう描いているのか。

■実物コピー 

【育鵬社】

 

 

 

 

 

【自由社】

 

 

 

 

【東京書籍】

 

 

【帝国書院】

 

 

 

 

【教育出版】

 

 

 

【日本文教】

 

 

 

 

【清水書院】

 

 

 

【学び舎】

 

 

 

~次回、「米軍の描き方のちがい」のまとめと考察~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114・>

【中学歴史教科書8社を比べる】115 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その14 ④沖縄戦:ⅲ 米軍の描き方 2/2 まとめと考察>

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■まとめと考察

 

1 記事量

 沖縄戦は、「第二次世界大戦における最激戦地のひとつ」であり、しかも、住民を戦いの中に数十万人もまきこんだ。また、その後の米軍基地の問題もあって、現在もきわめて大きな影響を与えている重要な歴史事象。

 したがって、映像資料なども含めて1ページ以上の量は必要だろう。少なすぎて△→ 東京書籍、教育出版、清水書院。

 

2 米軍の強大な戦力

 戦力言及なしの戦争描写はありえない。(写真資料等も含めた)言及なしは△→ 自由社、東京書籍、教育出版、日本文教、清水書院。 

 

3 米軍の戦い方

 《「民間人」へも容赦ない攻撃をした地上戦》という、きわめて特殊な残虐な戦い方だった。
 それに言及しない教科書は、いまだに、《「連合軍への批判は禁止」という、7年間の占領時のGHQコード・検閲の影響下にある》と言われてもしかたないだろう。

 「戦闘の激しさ」にも「民間人への加害」のどちらにも言及しないのは×→ 教育出版。

 

4 米軍の損害

 日本軍(+県民)は文字通りの死闘により、米軍史上まれにみる損害を与えた。評価は次の「日本軍の描き方」の部で行う。

 

5 写真と地図・資料

 現代の中学生に理解させるには映像資料が不可欠。
 映像資料なしは△→ 東京書籍※、教育出版、清水書院。

※東京書籍採用の写真③は、《米軍が住民を助けている図柄》であり対象外(載せていけないのではない)。この写真だけを載せている東京書籍はGHQコード影響下にあるのだろう。
 写真③は日本文教、学び舎も使っている「人気写真」。

 

~次回、「日本軍の描き方のちがい」~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115・>

【中学歴史教科書8社を比べる】116 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その16 ④沖縄戦:ⅳ 日本軍の描き方 1/2>

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ⅳ 日本軍の描き方のちがい

 

■基礎知識 <参照 【中学歴史教科書8社を比べる】111 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その11:沖縄戦:基礎知識> >

 

  日本軍(志願あるいは徴用された沖縄県民も含む)が、決死の覚悟で死闘を繰り広げたことはまちがいない。
(※住民がまきこまれた複雑な戦いになっていたが、住民に関することについては次項で独立して調べる。)

 

■実物コピー

【育鵬社】

 




 

【自由社】

 

【東京書籍】

 

【帝国書院】

 

 

 

【教育出版】

 

【日本文教】

 

 

【清水書院】

 

 

 

 

【学び舎】

 

 

 

 

~次回、まとめと考察~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116・>

【中学歴史教科書8社を比べる】117 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その17 ④沖縄戦:ⅳ 日本軍の描き方2/2 まとめと考察>

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■まとめと考察

 

 

   

<ウィキペディア:沖縄戦>より引用

・「住民犠牲について 犠牲者数

 沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。

沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人 A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人 B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人 C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数) 5万5246人 D:一般住民 3万8754人(推定)」~引用終わり~

 

◆当時沖縄にいた日本人の概数 約60万人

・沖縄戦に参加した日本正規軍=11万6400人
・当時の沖縄県の人口=約50万人



◆戦死者(犠牲者) 約20万人

・(広く定義した)日本軍(A+B+C)の戦死者=14万9382人
・沖縄県民(B+C+D)の戦死者=12万2228人
・一般住民(D:沖縄県民のうち、戦闘に参加しなかった民間人)の死者=3万8754人(推定) 

<参考>沖縄戦に「巻き込まれて」死亡した県民=①「一般住民」:D 3万8754人(推定)/②「民間人」:C(準軍属)+D:9万4000人 /③「県民」:B(軍人・軍属)+C+D:12万2228人  ※見方によって3通りあるようだ。

 

 ことさらに日本国と沖縄県を対立させて、まるで《沖縄は日本ではない》というような見方・立場をとる一部の日本人がいる。

 しかし、《沖縄県は他県と同じく日本の一部分》という立場でみれば、約55万人の米軍に対して、数十万人(=正規軍人約12万+軍属・準軍属の沖縄県民:数十万?/総人口:約50万人)の(広く定義した)日本軍が死闘を繰り広げた。

 

1 日本軍の戦力

 帝国書院と学び舎だけが正規軍の人数を書いている。
 《何人が米軍と戦ったのか》がはっきりしないという事情はあるが、推定と明記してでも言及すべきと思うが…

 

2 日本軍の戦い方

・米軍に直接対峙したのは、当然のこととして約12万の正規軍なのだから、「戦史」としてはまずその戦いを描くのが普通だろう。
 なのに、正規軍の戦いに具体的に言及しているのは育鵬社、自由社、帝国書院、学び舎の4社のみ。

・この戦いは、日本軍だけでなく米軍にとっても歴史的な激闘、死闘。
 両軍の戦いの「激しさ(過酷さ)」に言及しないのは△→ 日本文教、学び舎

 

3 日本軍の損害

 「県民の死者」のみ言及している東京書籍、教育出版、日本文教、学び舎は異常だと思う。沖縄戦は日米の戦争だったのだが…
 しかも、学び舎は、他の都道府県出身者は無視して「沖縄県出身軍人の死者数」だけという徹底ぶり。

 

4 日本軍が住民にしたこと

 育鵬社、自由社、東京書籍以外は、《日本軍は悪》といわんばかりの描き方。

 次回からの「住民(沖縄県民)の描き方」でさらにくわしく比較調査します。

 

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117・>

【中学歴史教科書8社を比べる】118 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その18 ④沖縄戦:Ⅴ 住民の描き方 実物コピー1/2>

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■実物コピー 1/2 

【育鵬社】

 

 

 

 

 


 

 

【自由社】

 

 


 

 

【東京書籍】

 

 

 

【帝国書院】

 

 

 

 

 

 

 

~次回、コピー2/2 ~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117118・>

【中学歴史教科書8社を比べる】119 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その19 ④沖縄戦:Ⅴ 住民の描き方 実物コピー2/2>

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■実物コピー 2/2

【教育出版】

 

 

【日本文教】

 

 

 

【清水書院】



 

 

 

【学び舎】

 

 

 

 

 

 

~次回、まとめと考察 ~

 

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117118119・>

【中学歴史教科書8社を比べる】120 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その20 ④沖縄戦:Ⅴ 住民の描き方3 まとめと考察1/3>

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■まとめと考察

 現代の沖縄は、対中関係の影響により日本でもっとも政治的不安定の地になっている。その不安定の根源は中世・近世の「琉球王国」までさかのぼるが、《近代から現代へと移行した「大東亜戦争(※米呼称:太平洋戦争)」とその結果》によるところがもっとも大きいだろう。

 したがって、《沖縄についての歴史認識と現状認識》は複雑で難しく、しっかりと理解しなければならない。そこで、沖縄戦についての考察は3回に分けて行う。

 

 

~以下、この考察内の「 」内の文章や使用数字は、<ウィキペディア:沖縄戦>より引用~

1 動員と徴用

 祖国防衛のため、沖縄県民は「根こそぎ」と言っていいほど、戦闘員として動員、労役者として徴用された。

 

◆動員 【戦闘員=軍人、軍属、※準軍属】

・「戦闘員としての動員の中心は、兵役法に基づく17歳から45歳の男性の防衛召集

 

・「合計2万5千人以上が防衛召集されて一般陸海軍部隊や特設警備隊、遊撃隊などに配属され、1万3千人以上が戦死したとされる。これらの防衛召集兵は在郷軍人会による義勇隊と合わせて「防衛隊」と通称されている。」

 

・「学徒隊として、1945年3月に14-17歳の旧制中学生ら1780人の男子生徒による鉄血勤皇隊が編成され、少年兵として防衛召集された。戦車に対する肉迫攻撃など戦闘行為にも従事し、約半数が戦死した。」

 

・「女子についても14歳以上の女子生徒を従軍看護婦の代用としたひめゆり学徒隊白梅学徒隊などが組織され、陸軍病院などで活動した。」

 

・「防衛召集によらない形式での住民の直接戦闘参加も発生しており、伊江島の戦闘では妊婦や少女までもが竹槍や爆弾で武装して突撃した。」

 

 ※準軍属

・「戦後の戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用の関係では、直接の戦闘任務より広く日本軍に協力して死亡した者を「戦闘参加者」として、準軍属と認定している。

 戦闘参加者として48509人が認定されていた段階では、軍部隊への地下壕明渡しが11483人を占めた。その他、輸送や食糧提供などが理由に挙げられる。」

 

 

◆徴用

・「陣地構築などのための徴用

 沖縄戦では、多数の現地住民が「軍民一体の戦闘協力」のスローガンの下、飛行場建設や陣地構築など軍事活動の一部に参加した。」

 

・「男女を問わず動員されたほか、対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事した。」

 

 まことにすさまじい総力戦…

 これらの未曽有(みぞう)の動員・徴用についてまったく述べていない東京書籍と清水書院は、日本という国、沖縄という地域のことをいったいどう思っているのだろう。

 

~次回、まとめと考察2/3 ~

 

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117118119120・>


【中学歴史教科書8社を比べる】121 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その21 ④沖縄戦:Ⅴ 住民の描き方4 まとめと考察2/3>

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■まとめと考察2/3 ※まとめ表再掲

 

 

 

2 沖縄県民の戦没者(犠牲者)数  

 各社記載の数が《無記載~多数~12万~15万人》と多様なので、調べて整理した。
 ※下記⑴⑵の内容はすべて<ウィキペディア:沖縄戦 2017.3.13>による。

 

⑴ 日本側全体の死者 = 18万8136人
 「沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人。」

 

⑵ 沖縄県民の戦没者 = 12万2228人

 昭和20(1945)年の沖縄県の推定人口は約50~60万人だから、ほぼ1/4、4人に一人が死亡というすさまじさ。

 【内訳】 ※「1950年の沖縄県援護課の発表」による。

① 軍人・軍属 = 2万8228人
 現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊などの戦死者。

 

② 戦闘参加者(準軍属)= 5万5246人
 戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数

 ※集団自決した住民(約1000人)も含まれる。(次項でくわしく調べる)

 

③ 一般住民 = 3万8754人(推定)
 ①②以外の、戦闘に参加しなかった民間人戦没者。

 ※「推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年(昭和20年)と1946年(昭和21年)の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとしたためである。(松永注:C=上記② D=上記③)
 終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、また海外からの引き揚げ者4万人以上や復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。」

 ※死因は、米軍の様々な攻撃(=爆撃・砲撃・銃撃・火炎放射・毒ガス…)、戦場の流れ弾など、避難先などで病死や餓死、スパイ容疑の処刑(約1000人)、など。
 一般住民③については、①②とちがって、死因の公式調査はされていない=死因別の数は不明。

 

 

⑶ 沖縄戦に「巻き込まれて」死亡した県民の人数 ※考え方によって4通りあるようだ。

・12万2228人 戦没者全員 =軍人・軍属① + 準軍属② + 一般住民③

・  9万4000人 民間人戦没者 =準軍属② + 一般住民③

・  3万8754人 一般住民戦没者 =一般住民③ 
 ※これだけが推定数だが、実際はこれ以上と推定されている。これが推定数なので、他の「巻き込まれ死亡者数」もすべて推定数ということになる。 

 


⑷ 各社教科書の記載の類別 

・12万人(戦死者)を採用・・・東京書籍、教育出版、日本文教、清水書院

・15万人(戦死者+餓死、病死など)を採用・・・学び舎

・多数・・・自由社。※あいまいすぎて不適当。

・無記・・・帝国書院 
 ※沖縄戦についての多くの記事により《たくさんの方々が亡くなられたのは推測できる》が、基本情報である死者の数を書かないのは非常識(※もしかして、うっかりミス?)。ミスでないとするなら、客観性を軽んじて何を重視?

 

~次回、まとめと考察3/3 ~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117118119120121・>

【中学歴史教科書8社を比べる】122 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その22 ④沖縄戦:Ⅴ 住民の描き方5 まとめと考察3/3>

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■まとめと考察2/3 ※まとめ表再掲

 

 

 

3 死因

 鎌倉時代の「元寇」以来、《国内で、外国軍に何万もの住民が巻き込まれて殺された戦闘》は沖縄戦だけ(空中戦のみの本土空襲と原爆を除いて)。しかもわずか70年ほど前の過酷なできごとであり、住民がどのように死んでいったのか、歴史の苦い教訓として、義務教育の中でしっかり国民に語り継がねばならない。

 

⑴ 死因別の死者数

 各社がどのように描いているのか評価するために、ウィキペディアによって《死因別の死者数》を調べた。※〈推定〉は、複数記事から松永が計算したもの。

 

A 【戦死】〈推定〉約11万人

 8万2474人(軍人・軍属と準軍属の戦没者)はほぼ確実。それに、〈推定〉2万8000人(=③一般住民戦没数から、病死・餓死:約1万と処刑死:約1000を除いた数)を加える。対馬丸の児童などの船舶攻撃による死者は③に含まれている。

 ※死因は、米軍の爆撃・砲撃・銃撃・火炎放射・ガス攻撃、魚雷攻撃などによる死。軍人・軍属・準軍属だけでなく、戦場(になった地域)に居合わせた住民の「巻き込まれ死」も含む。

 

B 【病死、餓死】 約1万人

 「地上戦域外での餓死者・病死者」。前記の「③一般住民=3万8754人(推定)」に含まれている。

 ◆マラリア病死 約1万人 <ウィキペディア:戦争マラリア 2017.3.16>より 

「沖縄戦でのマラリア犠牲者数

波照間島での犠牲者数は、全人口1511人に対して、488人であり(477人とする場合と500人とする場合がある)、死亡時期は1945年7月から1947年に渡っている。1945年8月初めから波照間島への引き揚げが行われたが、多くの人間がすでにマラリアに罹患しており、引き揚げ時には元気だった人や復員してきた人にも次々に伝染し、波照間島は有病地帯になってしまった。 八重山諸島での犠牲者数は、八重山民政府衛生部発行の資料「1945年戦争における八重山群島のマラリアについて」(沖縄県史所収)によれば全人口3万1671人に対して3647人である。7月23日引き揚げが許されたが、9月一杯まで犠牲者は続いた。 大田昌秀は「沖縄県史」第1巻の大城昭保論文を引用し、国頭(沖縄本島北部)一帯で1万名あまりがマラリアで死亡したとしている。」

 ◆餓死 人数不明

 マラリア発症と飢えは同時に起きたらしいので、数としては病死に含めることにする。

 

C 【日本軍による殺害】 約1000人(それ以上との説もあり)

 主にスパイ容疑などでの処刑。ほとんど③一般住民に含まれている。

 

D 【自殺】 主に「集団自決」約1000人(それ以上との説もあり) 

 ②準軍属」に含まれている。つまり、「援護法」の対象者ということ。

 ※「集団自決」については、次に独立項を立てて詳しく調べる。

 

 

⑵ 各社はどんな死因を記載しているか

 

□戦死・病死餓死・日本軍が殺害・自決 ※上記A~Dすべて・・・(2社)帝国書院、日本文教

□戦死・病死餓死・自決・・・(1)育鵬社

□戦死・自決・・・(4)東京書籍、教育出版、清水書院、学び舎

□戦死・・・(1)自由社

 

・全戦没者のうち戦死が圧倒的に多いのだから、各社共通は当然のこと。

・特に気になるのは帝国書院と日本文教の描き方。
 明らかに、《日本軍は悪、沖縄県民は被害者》という構図に単純化され、かつ、過度に強調されている。

 現状の《地上波テレビや、朝日・毎日新聞と、ほとんどの地方新聞(※記事配信≒共同通信)の認識・論調》にとても似ていて、《日本人・日本国民としての一体感・帰属感や自覚をもった県民》の存在を無視している。

・集団自決や、(まちがった)処刑は無いほうがいいに決まっている。
 人数はそれぞれ約1000人と推定されており、県民戦没者約12万人の約1.7%。
 まことに痛ましいできごと。
 ただし、《スパイの処刑は世界中の戦場で普通に行われてきたこと》であることは知っておく必要がある。
 沖縄戦における処刑が妥当だったのかどうか。今ではもうその真実は分からないことなのだろう…

 ※「集団自決」については、「日本軍の関与」については対立的な見解があるので、次回からくわしく調べることにする。

 

~次回、集団自決の描き方の問題点 ~

<全リンク⇒1へ> 琉球・沖縄<101102103104105106107108109110 /現代111112113114115116117118119120121122・>

【中学歴史教科書8社を比べる】123 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その23 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決 1 自決例/実物コピー >

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ⅵ 「集団自決」の描き方

 

 沖縄戦における集団自決ははっきりとした事実。
 しかし、《そこでの「軍の命令や指示」の有無》は論争点になっていて、完全に対立している。

 そこで、まず「チビリガマの事例」と、各社の該当箇所の実物コピーを紹介する。

 

 

チビチリガマの集団自決 <ウィキペディア:沖縄戦における集団自決>より

 

「沖縄戦でもっともよく知られている集団自決事件として、チビチリガマでの事件が挙げられる。

 3月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマには140人近くがいた。
 4月1日読谷村に上陸した米軍はチビチリガマに迫った。ガマの入り口に米兵が現れるとガマの中にいた3人(後述の従軍看護婦であった25歳の女性を含む)が竹槍を持って外の米兵に向かって行き2人が死傷した。

 外が米軍でいっぱいであることがわかりガマの中がパニックになると、南方帰りの在郷軍人(満期除隊した高齢の男性)がサイパンではこうして死んだといって、布団に火をつけて窒息死しようとした。
 だが4人の女が止め火を消した。ガマの中は騒然となった。
 月2日米兵がガマの中に入ってきて投降を呼びかけ投降勧告ビラを残していった。

 

 米兵が去った後、在郷軍人が「見たらいかんよ」「誰も見るな」と言いながらビラを人々から取り上げて回収すると、ガマの中に「もうどうにもならない。終わりだ。」と動揺が走り自決が始まった。
 在郷軍人が「だから昨日死んでおけばよかった」と言って再び火をつけたが、また4人の女が消した。
 従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。彼女は毒薬を持っており注射器でそれを家族親戚15人ほどに注射して人々は死んでいった。
 周囲の人は「あんなに楽に死ねる」と言ってうらやましがった。
 再び布団に火がつけられ、ガマの中はパニックになった。
 ガマでは84人が死んだがその半数は12歳以下の子どもである。

 数十人はガマを出て米軍に投降した。
 ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も殺されるのではないかと思っていた者もいた。
 なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。

 

 こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった。
 それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。

 

 読谷村の集団自決については読谷村史がWEB上で公開されている。」

 

■6社の実物コピー

【育鵬社】

 

 

【自由社】 ※言及なし 

 

【東京書籍】

 

 

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【清水書院】 ※言及なし 

 

【学び舎】

 

 

 

~次回、集団自決の描き方 2 ~

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《著者:松永正紀  h22(2010)年度 唐津地区(佐賀県唐津市+東松浦郡)小中学校校長会長》

【中学歴史教科書8社を比べる】124 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その24 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決2 手記について1/3>

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~今回は、教科書比較から脱線させてもらい、「歴史資料」の理解・解釈の難しさについて考えます~  ※不思議ですが、「制限文字数を超えた」と表示が出て投稿できないので3回に分けます。

 

■昨日掲載の「チビチリガマの集団自決」のなかの、「従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。」という表現の解釈について

 誰が虐殺(=「むごく殺された」)したか書いてないが、普通に読むと、《中国人住民が(日本軍によって)虐殺された》と読み取る人が多いのではないかと思います(米国と中国によって、世界中にそのような言説が流布宣伝されているので…)。
 しかし、当時の元従軍看護婦さんが、敵兵(米軍)と味方兵(日本軍)を、《どちらも住民を虐殺する同類》と思っていたのだろうか?、という疑問がわいてきたので、調べてみることにしました。

 

1 本当にこのような言葉を言った、と仮定して調べたみたが…

 まず、ウィキペディア記事のもとになったのかもしれない、と思われる資料を「読谷村史」で調べた。

 残念ながら、「元従軍看護婦」さん本人の手記は「読谷村史」には載っていない。以下の資料から推理すると、ガマの中で、「毒薬」を注射して自殺された可能性がとても高い。
 そこで、掲載されている4つの記事 (本人の手記か、聞き取り記事かは不明) を調べる。

・最初に、この(ガマで亡くなられた)元従軍看護婦さんと「親しかった」と書いておられる玉城さんの「思い出話」 
 ※筆者(話者?)である玉城さんは、ガマにいっしょにいたのではない。

 

⑴ <読谷村史:集団自決:チビチリガマでの「集団自決」:「※※さんの思い出」玉城※※(字儀間)2017.3.19>より

 

・「昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。みんなは「※※ちゃん」とか「※※さん」とか呼んでいました。彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、・・・」

 

・「とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。国のためにという熱意にあふれて力強く話す姿は、今でいうと政治家の土井たか子に似ていました。」

 

・「「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。」

 

・「※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。」 

 <松永注:「※※さんは戦後・・・いろいろ思われた」という文は、※※さんが「思われた(尊敬表現)」のかと誤読しやすい文だが、全体の文脈から推理すると、「生き残った読谷村(沖縄)の人たちから…いろいろ思われた(受け身表現)」と読みとれる。>

 

① 玉城さんはガマの中にいなかったのだから、絶対に証言にはならない。

② 自決した知花さんから、生前に聞いた、と言っている内容は、
 ・知花さんが「「支那事変」帰りの兵隊に聞いた」話・・・つまり、伝聞のそのまた伝聞の話。学問的な、客観的資料としての信頼性はないだろう。
 ・そのうえ、《日本兵が住民を虐殺した、という話》ではなく、「戦場での女の哀れ話」。

 ※なぜ「ガマの生き残り者の手記」でなく、「自決者の知人の思い出話」が、(体験者の証言記事より前に)この冒頭部分にに載せてあるのだろうか?

 

 実は、どうやら、これが「中国人住民が…」の原典か?と推理できる、非力な私が見つけた唯一の資料だが…? (ウィキペディア記事の検証をする力は私にはありません。)

 

~次回につづく ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】125 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その25 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決 3 手記について 2/3>

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前回のつづき~   

■「従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。」という表現の解釈について (その2)

 

⑵ <読谷村史:集団自決:体験記:知花 >より 

・「もう死んだ方がまし、アメリカーにやられたら、強かんされるか、耳、鼻、みんな切られてしまうから、自分で『自決』した方がいい」とね、これ以外にこの時はなんも考えられなかったよ。」

 ※チビチリガマ生存者の方の証言。《中国戦線の住民虐殺》のことは書かれていない。 

 

⑶ <読谷村史:集団自決:体験記:上原 >より 

・「それでもう「トーナー、チャーンナランサ」って言ってね。もう、これは終わりだと。もう、自分達でね、自分達の始末せないかんと。そう言って、「集団自決」が始まったわけですよ。子供を殺したりね、注射したり……。
 看護婦していた人にね、私も注射をしてくれって頼んだんですよ。看護婦さんの前にずらっと並んだ行列に私も並んでね。注射は、重傷者から先に打っていました。」

 ※チビチリガマ生存者(当時12歳)の方の証言。《中国戦線の住民虐殺》のことは書かれていない。

 

⑷ <読谷村史:集団自決:体験記:上原>より (※2人目の上原さん:妹)

・「看護婦の前にたくさんの人が列をなして並んでいて、この人たちは毒を注射してもらうのを待っていました。私の兄もその列に並んだので、私も行ったほうがいいのかな、でも薬(毒)はなくなるんじゃないかなとも思いました。非常に複雑な気持ちでいると、結局兄は毒が足りないからと看護婦に帰されてきていました。」

 ※チビチリガマ生存者(当時9歳)の方の証言。《中国戦線の住民虐殺》のことは書かれていない。

 

⑸ <読谷村史:集団自決:体験記:比嘉>より 

・「でも、周りは地獄のような有様で、どんどん人が自決していく叫び声が聞こえるから、私も興奮していて「アメリカーにいたずらされるより、死んだほうがいい」と義姉さんに反対したんです。でも義姉さんは「出て行けば、どうにかなる。ティーダウガリカラ(太陽を見てから)死んでもいいんじゃないか。早く子供をおんぶして!」と私を叱り付けるように言うので、私も、どうせ死ぬならこんな真っ暗な所じゃなくて、太陽の下で死にたいと思い、そこからみんなで外に出たのです。」

 ※チビチリガマ生存者の方の証言。《中国戦線の住民虐殺》のことは書かれていない。

 

◆チビチリガマの体験者4名(知花、上原兄妹、比嘉さん)の方の証言に矛盾はなく、ガマの入り口に米兵が現れてからの推移は同じになっている。
 しかし、どの証言にも、《中国戦線の住民虐殺》のことは出てこない。

 したがって、私の調査能力の範囲では、ガマ内で《中国戦線の住民虐殺》の話がされたことは証明できなかった。
 ただし、《その話が無かった》ということもまた証明できない。

 

~次回につづく ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】126 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その26 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決4 手記について 3/3>

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前々回前回のつづき~ 

■「従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。」という表現の解釈について (その3)

 

2 《言った事実があった》と仮定した場合、元従軍看護婦は《「日本軍が」虐殺したと思っていたのか?》という解釈問題についての考察

 

 少し注意して読むと、《誰が殺したか?》については書いてないことに気づく。そこで、「誰が」について推理すると、

①  日中戦争(支那事変)ごろの状況ににくわしい人々は、《中国住民や日本民間人を「むごく」殺したのはほとんど中国兵(国民政府・党軍、共産党軍)やその逃亡兵などであり、日本兵は「むごい住民殺人=「虐殺」」などしていない》と証言している方が多いようです。

 ※もちろん《どんな世界にも例外はある》のは常識。日本兵がまったく住民虐殺をしなかったとは言い切れないと思うが、ここでは追求しない(後の「日中戦争」の項でくわしく調べる)。

 

② 《どの国にもむごたらしい殺人者はいる》が、理解すべきなのはその傾向や割合。日本人の多くは、中国人のほうが《残虐性の傾向は全体として日本人よりはるかに強く、かつ、そうである人間の割合がはるかに大きい》と思っているだろう。

 以上の①②を考えると、(元従軍看護婦が言わなかった)虐殺者とは、日本兵ではなく、中国兵だった可能性があることに気づく。

 

③  「日本語(人)は主語を言わない(ことが多い)」と昔からよく言われてきたし、実際に、日常生活では(多くの日本文学でも)そうだ。
 つまり、日本語文化では、《「聞き手」や「読み手」のみんなが分かっている主語(など)は省くのが普通。(※他の言語文化についてはよく知らない。比べてはいない。)

 以上のことから推理すると・・・(愛国心が強かったと言われている)元従軍看護婦にとって、《日本兵は敵国住民を虐殺はしない》というのは「分かりきっていること」。
《ガマにいる仲間もそう思っている》と思っていたので、「支那兵に」という言葉をわざわざ言うことを省いた可能性が高いのではないだろうか。

 

④  実はもう一つ”間接的?証言”があります。

 私の母も大正8(1919)年生まれの元従軍看護婦で、昭和17(1942)年まで、北京の陸軍病院に勤めていました。
 その後帰国して、戦後はずっと小・中学校の養護教諭であり、退職するまで日教組(日本教職員組合)の組合員でした。97歳で昨年永眠。

 私は子供のころから、従軍看護婦時代の写真アルバムを見せてもらいながらいろいろと話を聞きました(今でもアルバムはある)。
 病院内のようすは当然のこととして、「港に船がついたとき、支那兵の死体がごろごろ転がっていた」とか、「軍医さんに付いて慰安婦の診察に行った」などという話をたくさん聞きました。

 しかし、《日本兵が住民を虐殺した》という話は聞いたことがありませんでした。
 もちろん、《自国の軍が(敵地の)住民を虐殺した》などと、もしもあったとしても日本人の多くは(母も)言いたくはないでしょうから、《言わなかったから、日本兵は住民を虐殺していない》という証拠にはなりませんが。

 (※《無かったこと》や《しなかったこと》の証明は、当然ながら物的証拠も無いので原理的に不可能であり、状況的推理をするほかない。ついでに言えば、《人間が言った言葉》は《それだけで信用する》ことはできないのは周知の事実、《人は嘘がつける》し、《嘘を信じこめる=だまされる》し、《ときには、自分が見たものでさえ誤解する》…ので。)

 

  いずれにしても、《歴史のかなたに消え去ったできごと》については、たとえ「1次資料」であっても、また「2次資料」ならなおさら、「裏取り」や状況的推理は不可欠のようです。それでも真実は分からない(証明できない)ということも多々あるようです。

 歴史上のできごとにはこのような曖昧性がつきものだから、中華人民共和国や大韓民国のような《国家的大嘘》が通用してしまう(ように見える)のでしょうね。 

 

~次回につづく ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】127 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その27 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決5 まとめと考察1>

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■まとめと考察 ~その1~ ※かなり複雑かつ微妙な問題なので長くなります。

 

1 日本軍が強制したのか? 

 以下、「 」内は<ウィキペディア:沖縄戦における集団自決>より引用

 

⑴ 日本軍強制説  東京書籍、教育出版、日本文教

 

・「軍の強制によるものとする立場 研究の経緯

 集団自決がその実態としては日本軍の強制であるという研究者の見解は、1984年の家永教科書裁判第3次訴訟時に研究者により示され、その後に成書として出版されている。また、以後の教科書検定撤回運動の際などに、新聞記事にも取り上げられるようになった。
 沖縄国際大学講師の大城将保は「これ以後集団自決が日本軍の強制であることは、研究者の間でも定説となり多くの教科書にもそのように書かれてきた」と主張している。
 現在までの沖縄戦に関する歴史書の多くは、集団自決は日本軍に強いられたものと主張している。」

 

・「主張される強制の事実

 日本軍は、民間人に適用すべきではない戦陣訓や防諜を理由として米軍への投降をしないよう命令していた。投降は敵に情報を提供し日本軍を不利にする行為として、治安維持法の「国体の変革を目的とする者」とされた例もあり、投降者への狙撃も行われた。
 元大本営参謀厚生省引揚援護局厚生事務官馬淵新治は、沖縄戦での軍による強制によって、なんらかの形で住民が死亡する事例が多数起きていたことを証言した。」

 

・「このように住民が米軍支配下に入ることを認めなかったことから、集団自決は、日本軍の強制と切りはなして考えることはできないと主張する。
 戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節や、当時の日本政府や軍人が国民に対して、鬼畜米英と恐怖心を植えつけ、投降の方法などを教えなかったことなどが、多くの軍人や民間人に影響を及ぼし、自殺へとつながったとする意見がある。」

 

・「林博史は同様な状況の2つの壕において、日本軍が同居した壕では「集団自決」がおこり、日本軍の存在しない壕では「集団自決」がおきなかった例を具体的に指摘し、多くの例を検討した上で直接の命令がなくても軍による強制と考えるべきとしている。」

 

・「強制の証拠

 慶良間諸島の場合については、当時の兵事主任(あるいは助役)やその親族が、「集団自決」の命令が直接に日本軍からきたと証言している。
 具体的には、渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、金城重明が兵事主任からその話を聞いたことを現在も証言している。」

 

⑵ 住民自発説  育鵬社

 

・「軍の強制を否定・疑問視する立場  集団自決の強制を否定する意見

 集団自決は「軍の命令だった」とする意見や、「強制があった」や「関与があった」とする曖昧な指摘を、否定・疑問視する意見が、軍命をしたとされる本人や体験者、研究者、ジャーナリスト等から出ている。」

 

・「渡嘉敷島の陸軍海上挺身戦隊第三戦隊第三中隊長、皆本義博中尉(陸士57期)によれば、「戦後、沖縄の集団自決は軍の命令によるものだという説が出ましたが、そんなことはありえません。むしろ渡嘉敷の方々は、命をかけて父祖の土地を守ろうと会津白虎隊のような精神で殉ぜられたのではないかと考えます。そのような気質の方ばかりでした。また、そもそも軍には村民に命令を下す権限はなく、集団自決を命じたなどという証拠は何もない。」

 

・「2009年5月1日発売のうらそえ文藝第14号で、沖縄県文化協会長星雅彦沖縄タイムス琉球新報上で寄稿記事を執筆していた上原正稔は慶良間諸島の赤松嘉次隊長と梅澤裕隊長が軍命を出した事実は一切なく、沖縄県内のマスコミによってスケープゴートとされているという内容の論文を発表した。」

 

・「命令者とされてきた赤松元大尉の弟と梅澤元少佐は、後述のような証言・著書等を証拠として、命令をしたと断言してきた大江健三郎の『沖縄ノート』)、家永三郎の『太平洋戦争』に関し、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載をもとめ、大江健三郎と岩波書店を訴えるに至った(「集団自決」訴訟)が、請求は退けられた。」

 

・「証拠が不十分との研究

 渡嘉敷島における「集団自決」について、赤松嘉次隊長による命令によるものという沖縄で言われてきたことに対し、それを否定したのが曽野綾子の『ある神話の背景』である。
 曽野は、隊長命令説の根拠が曖昧で疑わしいことを、赤松元隊長や隊員への取材や渡嘉敷島現地での取材を通して明らかにしたとする。曽野は「神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできない」とし、「私は、直接の体験から『赤松氏が、自決命令を出した』と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」と言うより他はないとした。

 この著書について仲程昌徳琉球大学法文学部教授は「この著書は公平な視点でルポルタージュされた「本土の作家の沖縄戦記」である。曽野の調査が進んでいくにしたがって集団自決は疑わしくなっていくばかりではなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。これまで集団自決のあらゆる著書で引用された『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられた。」と評価した。」

 

・「強制を否定する証拠

 1985年7月30日付神戸新聞では「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望した島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。
 そこには宮城初枝が「梅澤少佐に自決を求めたが、「最後まで生き残って軍とともに戦おう」と武器提供を断られた」という証言が掲載されている。」

 

・「慶留間島の大城昌子によれば「前々から阿嘉島駐屯の野田隊長(海上挺進第三戦隊長・野田義彦少佐)さんから、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。
 ただ、家族が顔を見合わせて、早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。」

 

・「援護法適用のための偽証との見方

 座間味島の事例などについて、軍による強制であるとの証言が行われてきたのは、援護法の適用を受けるための偽証だったのではないかとの見方もある。」

 

・「議論の曖昧化への批判

 秦郁彦は、証言の裏づけも見つからない状況の中で「関与」というあいまいな言葉にすり替えて軍の強制性を語る人間が増えており、これは慰安婦問題と同じことが繰り返されていると批判している。」

 

 

~次回、政府見解 ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】128 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その28 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決6 まとめと考察2>

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 昨日、佐賀県鳥栖市内で、「中学歴史教科書8社を比べて」という演題でパワーポイントを使ってお話をさせていただきました。鳥栖市会議員の皆様も6名ほど来られており、大変心強く思いました。日本と地方を”運営”するのにもっとも中心的な役割を果たされるのは政治家の皆様。そして政治家を支えるのが国民・市民だということを再確認した夜でした。

 

 では、前回につづき、まとめ表を再掲し、”集団自決における日本軍のかかわりと、中学歴史教科書の描き方”について考えます。

 

 

1 日本軍が強制したのか? その2

 

<参考資料1> 

~国会における審議の場で:赤嶺議員の「質問主意書」の一部(二)と、安倍首相の答弁書の一部~

 

・「平成十九年七月三日提出 質問第四七四号 沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問主意書

 提出者  赤嶺政賢

 二 文部科学省は、本年四月十一日の衆議院文部科学委員会での私の質問に対し、「今回の教科用図書検定調査審議会の意見は、現時点では軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないという趣旨で付されたものと受けとめておりまして、日本軍の関与等を否定するものではないというふうに考えております」(銭谷初等中等教育局長)と答弁している。

 ところが、今回の検定では、例えば、「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という申請図書の記述に対し、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付され、検定決定では「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、そのなかには日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた」という記述に変更されている。「集団自決」への日本軍の関与が一切削除されている。

 当時の日本軍が「軍官民共生共死の一体化」の方針をとり、日本軍による「集団自決」の命令・強制・誘導があったことが住民の証言などで具体的に確認されている下で、「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という申請図書の記述が、なぜ「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」なのか。

 申請図書の記述は、軍の命令の有無について記述したものなのか。そのように判断した根拠は何か。申請者側は軍の命令について記述したものと説明したのか。日本軍によって「集団自決」に追い込まれた事例もあることを記述しているにすぎない申請図書の記述が、なぜ軍の命令の有無について断定したことになるのか。」

 

・「内閣衆質一六六第四七四号 平成十九年七月十日
 内閣総理大臣 安倍晋三

 衆議院議長 河野洋平 殿

衆議院議員赤嶺政賢君提出沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

 

・「二について

  御指摘の記述については、不幸にも集団自決された沖縄の住民のすべてに対して、自決の軍命令が下されたか否かを断定できない中で、すべての集団自決が軍の命令で行われたと誤解されるおそれがあるとの趣旨で、教科用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)の審議に基づき、検定意見を付したものである。」

 

 

<参考資料2> ~<鳥飼行博研究室」の記事>より抜粋・引用

 

・「1945年3月25日、三日前から続いた空襲に代わって、座間味島は艦砲射撃された。方々で火の手があがり、住民は壕の中に穏れ、おびえていた。夜おそく「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いた。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している、有力著の一人から一緒に来るように言われ、四人についていった。

 有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けた。

 いつ上陸してくるか知れない米軍を前に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返したが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。」

 ※ここに描かれている当時の沖縄県民の方々の姿・・・痛ましくも誇り高い日本人の方々だと思います。 

 

◆「日本軍によって自決に追いこまれた」・・・この表現自体は、《完全にまちがっている》とは言えない、いろいろな意味を含んでいる。
 当時の様々な状況を想像する中で、(軍の命令・強制があったかどうかは不明だとしても、)《心理的に、間接的に、状況により…自決するほか道はないと決断された人々が1000人ほどおられた》ということはまちがいないだろう。

 ただし、この表現では、普通の中学生は《日本軍が自殺を強制した》と読みとるだろう。

 したがって、「日本軍強制説(=日本軍直接原因説)」だけを述べて強調しているのは、一方的で偏向していると判断する。→× 東京書籍、教育出版、日本文教。

 

 ※両論併記すれば問題ないと思う。

 歴史のできごとには、後世では断定できないこと(=はっきり分からないこと)が多々あるのは当たり前のこと。だから、その場合には、①学問的に妥当性のある諸説を公平に紹介する、あるいは、②書かない、というのが学問的良心をもった態度だと思う。

 

~次回、2.日本軍が住民に手りゅう弾を与えたのか? ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】129 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その29 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決7 まとめと考察3>

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■まとめと考察 3

 

2 日本軍が住民に手りゅう弾を与えたのか?

 

⑴ 日本軍が与えたという説 (帝国書院、学び舎)

 

<全日本民医連:「死ぬ前に子や孫に聞かせておかんと」 沖縄戦「集団自決」 内原静子さん(83) 不発だった手榴弾。しゅうとは棒で家族を殴り… 2008/12/1>より

・「森住卓(写真家) (※松永注:取材記事=聞き書き。話し手=沖縄戦体験者の内原静子さん)

・「あちこちで手榴弾が爆発し自決が始まった。」

・「住民は日ごろから「鬼畜米英、捕まれば、女は強姦され、男は八つ裂きにされ殺される」と教育され、米軍上陸前には「日本軍の足手まといになるから、敵の手に落ちる前に自決しなさい」と自決用の手榴弾を渡されていた。」

 

 ※1 「と教育され」の教育者が誰なのか書いてない(=「内原静子」さんが言っていない)が、文脈から推理するとそれは「日本軍」ということらしい(?)。したがって、手榴弾を渡したのは日本軍ということになる(?)。
 しかし、厳密には、誰からもらったのかここには書いてない。

 

 ※2 こんなことはあんまり書きたくはないのだが… 
 朝日新聞や佐賀新聞、共産党系ウエブサイトなどの記事を読むと、《匂わしてはいるが、肝心の事実は書いてない》ということがけっこうある。つまり「印象操作(※厳密に言えば嘘あるいは嘘に近い場合が多く、かつ、部分的に事実の一部が混じっていることが多い)」の類。

 推理するに、そういう記事の場合は、おそらく事実を知られると都合が悪いので隠しているのだろう。
 上記記事の場合は、①内原さんが渡し手を知らない、のか、②筆者の森住氏が事実(※軍人ではない誰か)を隠している、のどちらかだろう。
 なぜなら、もしも内原さんが”軍人から渡された”と言われたのなら、必ずそのことを書くにちがいない、と推理できるからだ。(※推理でなく直感では①のようだが…?)

 

⑵ 住民入手説

 

<ウィキペディア:沖縄戦における集団自決 2017.3.25>より

・「渡嘉敷島の陸軍海上挺身戦隊第三戦隊第三中隊長、皆本義博中尉(陸士57期)によれば、・・・軍が手榴弾を渡したということもありません。当時、村では臨時の防衛隊が組織されていて、これは在郷軍人を長として協力者を集めたものでした。いわば義勇兵です。彼らは手榴弾などを持っていました。それが、村民の手に渡るのは容易だったのです。」と回想している。」

 

・「秦郁彦は、・・・日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して「軍の関与があった」としている人間がいるが、兵器不足であり、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されただけなのに「手榴弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのは問題だとも批判している。」

 

手榴弾を持っていた民間人 ~ 沖縄戦 2017.3.25>より

・「大東亜戦争沖縄戦でひめゆりの手記などを読んでいると手榴弾を持っていたことがわかります。
 陸軍病院に勤務していなかった福地という生徒が兵隊と一緒に避難してきて二個の手榴弾を示し「覚悟はきめております」と、他の学友といっしょに死なせてくれという嘆願が手記に書かれています。
 この後、13名で3個の手榴弾を持っていることが書かれており、他にも手榴弾があったことが伺えます。
 他 の記録では9人で手榴弾2個で自決の話し合いをしており、その場にいた下士官があわててカンパンと交換で取り上げた話などがあります。

 ひめゆりの場合は軍属なので、傷病兵や軍人からもらった可能性があります。
 米兵の証言を見ておりますと、老婆が米軍の手榴弾を投げつけてきたというのがあり、おそらく米兵の死体からとったものと思われます。
 日本兵の死体からも入手できたでしょうから、手榴弾の入手はさほど困難ではなかったと思われます。」

 

・「集団自決のあった渡嘉敷島ではせまい島内なので簡単には入手できないはずですが、生き残りの人の証言の中に「父が阿波連の区長を知っていたので特別に渡されてですね」と述べており、手榴弾がいくつか集められていたことがわかります。
 赤松大尉や連下氏の証言では民間人には手榴弾は配っておらず、防衛召集兵に2個づつ渡しており、彼らが家族に渡したのではないか、と述べています。
 皆本大尉の証言によると防衛隊は普段は自宅にいるが、自決のために渡したのではないだろう、と述べています。
 いずれにしろ、手榴弾は手に入りやすい状況にあったといえます。」

 

http://www.gettounohana.com/order/report/war-2.html 2017.3.25>より

・「渡嘉敷島の集団死

 慶良間諸島の渡嘉敷島では、1945年3月27日夕刻、配置されていた赤松隊によって「住民は恩納河原近く西山A高地の軍陣地に移動せよ」という命令が出されました。ところが、恩納河原にたどり着くと今度は渡嘉敷区に戻るよう退去命令が出されたのです。しかし、渡嘉敷区はすでに米軍の砲爆撃の最中で戻ることは不可能でした。逃げ場を失った住民たちが、恩納河原で集団死を決行しました。

 渡嘉敷島の場合、警防団によって予め住民に手榴弾が配られていました。手榴弾が不発で死にそびれた者たちは半狂乱になって、木の枝に首をくくったり、こん棒で殴り合ったり、カミソリや包丁で頚動脈を切ったりして死に急ぎました。
 この集団死で亡くなった住民は325名。手榴弾の不発などで死を免れたものは336名いました。

 戦後、軍による自決命令があったかどうかが論議されましたが、軍の命令以前に死以外の道はないという状況が作り上げられていたのです。」

 

 ※最後の文の「論議」の内容が書かれていないが、この文を論理的に推理すると・・・
 論議の結果、①”軍の命令はなかったと分かった”、あるいは、”軍命の民間人への直接の下命は確認できなかった” のどちらかだろうと推理できる。

 なぜなら、論議の結果・内容を書かないのにもかかわらず、文の後半に、”軍命とは無関係に、自決必至だった”と書いているからだ。
 普通は、文の前半に「〇〇が論議されましたが、」と書くならば、後半は「・・・という結論になりました」、とか、「結論が出ませんでした」などという結びになる。
 つまり、この筆者は、《”軍命についての論議”の結果・内容》を、なんらかの事情で書けない、あるいは、書きたくない状況にあったことが分かる(「論議」されたことはどうしても書きたかったが)。


 そこで、「死以外の道はないという状況が作り上げられていた」という表現を無理やり(=非論理的に)くっつけることによって、①「軍命」の有無をうやむやにし(=ごまかし)、かつ、②《「軍」=沖縄県民の「死」》という印象をもたせたかったのだろうと推理できる。

 

◆「日本軍が民間人に(直接)手榴弾を配った」という事実の《体験者の証言》は今のところ見つけきれない。
 実際のところは、①最初の出所が日本軍の場合、《沖縄の軍属など戦闘に関わる人々の手から、親しい避難民に渡っていった》、か、②米兵の死体が出所の両方の経路があるようだ。

 したがって、「日本軍が(住民に)配った」と断定的に書くのは→× 帝国書院、学び舎。

 

※自由社と清水書院は集団自決について言及していないが、《1000人ほどの日本人が自殺を選んだ(追いこまれた)という悲惨な事実》は、日本人中学生には教えるべきことではないだろうか。

 

~次回、米国占領時代の描き方 ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】130 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その30 ⑤米国占領時代の描き方:基礎知識/実物コピー1/2>

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⑤ 米国占領時代の沖縄の描き方

ⅰ 基礎知識

<ウィキペディア:日本国との平和条約>より 

・「日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約
 この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。

 国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。
 連合国構成国であるソビエト連邦は会議に出席したが条約に署名しなかった。連合国構成国の植民地継承国であるインドネシアは会議に出席し条約に署名したが、議会の批准はされなかった。連合国構成国である中華民国および連合国構成国の植民地継承国であるインドは会議に出席しなかった。
 その後、日本はインドネシア、中華民国、インドとの間で個別に講和条約を締結・批准している。

 本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約などともいう。1951年(昭和26年)9月8日全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。」

 

・「領土の放棄または信託統治への移管

「 カイロ宣言」も参照

 

朝鮮の独立を承認。済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する全ての権利権原及び請求権の放棄(第2条(a)) 台湾澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b)) 千島列島南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c)) 国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄。同諸島を国際連合信託統治領とする1947年4月2日の国際連合安全保障理事会決議を承認(第2条(d)) 南極大和雪原など)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(e)) 新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f)) 南西諸島(北緯29度以南。琉球諸島大東諸島など)・南方諸島(孀婦岩より南。小笠原諸島西之島火山列島)・沖ノ鳥島南鳥島をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意(第3条)」

 

 

ⅱ 実物コピー 1/2

【育鵬社】

 

【自由社】 ※沖縄の記述なし

 

【東京書籍】

 

 

 

【帝国書院】※沖縄の記述なし

 

~次回、コピー2/2、考察 ~

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【中学歴史教科書8社を比べる】131 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その31 ⑤米国占領時代の描き方:実物コピー2/2、考察>

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ⅱ 実物コピー 2/2

【教育出版】

 

【日本文教】

 

 

【清水書院】

 

【学び舎】

 

 

 

 

ⅲ 考察 (⑤米国占領時代の描き方)

◆占領下の沖縄の状況をもっとも具体的に描いている・・・学び舎

◆占領下の沖縄の状況を少し描いている・・・日本文教

◆講和後も《米国の「統治下」「軍政下」に置かれた》事実のみ簡単に言及・・・育鵬社、東京書籍、教育出版、清水書院

◇講和時(後)の処分についての言及なし・・・自由社、帝国書院

 《戦後27年間も、南西諸島や奄美諸島、小笠原諸島などが米国の信託統治下に置かれた》ことについて書かないと、現在のその地域の状況の由来の重要な一部が分からない。したがって、このことはきちんと教えるべきことだろう。

 

~次回、日本復帰~ 

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【中学歴史教科書8社を比べる】132 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その32 ⑥日本復帰から現在まで1:基礎知識1/2>

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現在、日本国内で唯一《政治体制として不安定=知事が政府と完全対立》になっている沖縄県。

 しかも、先進国では珍しく「スパイ防止法」を持たない日本ならではの とんでもない状況になっています。 

※青山繁晴参議院議員が「月刊Hanada 2016年11月号」の記事:澄哲録片片で、《中国が国家として翁長沖縄県知事を支援している》実態を描かれています。
 http://www.as-mode.com/blog/2016/09/hanada-201611.html 

(このブログ筆者は「事実なら」と書いているが、青山氏は”インテリジェンス”からの情報と書いている。ソースが米日どちらの情報機関なのかは分からないが、私はとても確度の高い情報だと思う。) 

 

⑥ 日本復帰から現在までの描き方の大ちがい

 

ⅰ 基礎知識 

<ウィキペディア:沖縄返還>より

・「沖縄返還(おきなわへんかん)は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたことを指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」である。 日本の法令用語としては、沖縄の復帰(おきなわのふっき)という。」

 

・「1950年代(昭和25年-昭和34年)から1960年代(昭和35年-昭和44年)にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄の扱いは施政権下においての自治から、ソ連中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を重視する方向に変わっていく。 

 アメリカ軍はその間にも施政権の下に各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰(日本復帰)を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年(昭和35年)には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。」

 

・「公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し1971年(昭和46年)沖縄返還協定調印、その後1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。」

 

・「内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。」

 

・「日本政府は返還協定第7条にもとづき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。西山太吉は実際の支出総額が5億ドルをはるかに超えて、密約として処理されたと主張している。」

 ~つづく~ 

 

~次回、基礎知識2~ 

<全リンク⇒1へ> 現代の沖縄 111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132

※ブログライターの「30000字制限」に引っかかり、本意ではないのですが記事が細切れになりました。調べると、《ウィキペディア記事内の多数のリンクと、このブログ内リンクの多さ」が原因でした。

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